なにしにいくの?①
よく聞かれることを、自分のなかでもはっきりさせましょう企画
とりあえず、留学に行く目的をだらだら書き出してみます。
- 日本語以外の目がほしい
- 異文化理解を教える先生になるには、まず自分が異文化理解
- 『日本から見た英語』だけじゃなく「他言語の国から見た英語』も知りたい
- 他の国で教育実習って最高じゃない?
- 一度ホームシックになるくらい、遠いところでがんばる力をつけたい
- 英語の先生になるんだから、やっぱ英語力!
- 「ずっと、少数派」になる経験をしておきたい
わりとかぶっている部分も多いですが、おおまかにこんなところ。
ちなみに、交換留学生選考のときの志望書に書いたのは、1と2です。
全部説明してたら長いので、まとめつつサクサクッといきます。
1.日本語以外の目がほしい
ひとことで言うのが難しいです。
日本語以外の思考方法やまわりの見方ができるようになりたい、みたいな?
自分の認知や認識を客観視したうえで離れる、みたいな?
・・・伝わらない気しかしないので、やっぱりちゃんと説明します。
まず前提条件として。
私は、
私たちは常に周りの世界を母語というフィルターを通して見ている
と思っています。
もうひとつ私は、
ひとりひとり見方が違うのは当たり前だけれど、そのことを実感するには、いちど自分と大きく違う見方に触れるべきである、
その「大きく違う」一つの良い例が他言語圏の人である、
と考えています。
例えば、よく「日本人の共通したものの見方」というのを聞きます。
ここでいうのは、「遅くまでがんばるのが美徳」とかそういう文化的なものではありません。(もちろん多少は関係しているとは思いますが)
日本で生活しているからではなく、たとえ他の国であっても、日本語を使っているから知らず知らずのうちに影響されている物事の捉え方など。
日本語で育ってきたから、つい優先して考えてしまうもの、
日本語で思考しているから、(他の言語を話す人には見えていても)見えないもの、
そういうの、あると思うんです。
・・・って今考えてて、似たようなこと考えてる人いっぱいいそうだけどなぁ、って検索したらとてもわかりやすいサイトが出てきました。引用します。
日本語と英語にはそれぞれ異なる考え方やperspective(視点)または世界認識がある。
「言語が異なれば認識する世界が異なる」という考えはPost-Structuralism(ポスト構造主義)や、言語心理学、哲学における一つの思想です。言い換えれば、言語が世界と自分の間に媒介することで、世界の認識(自分なりの現実認識)が可能になるということです。私は英語を学び、英語”で”学ぶことが自然となったある時から、この言語と現実認識の関係性を実際に感じるようになりました。
(中略)
英語と日本語の違いについての具体的な例は、
- 英語は三人称視点。日本語は一人称視点。
- 英語は文の頭に重点を。日本語は文の終わりに重点を。
- 英語は展開していくイメージ。日本語は収束していくイメージ。
などの違い、特徴です。
英語と日本語の現実認識の違い。 - English Notes.
私の言いたかったこと、少し伝わったでしょうか。
もうちょっと自分の言葉で説明できるように精進します。
で。
私はその違いを、身にひしひし沁みるほど自分のものにしたいのです。
そして、もうひとつの言語で周りを見る(=認識する)ことができるようになりたいのです。
知識として本を読み漁ることはできます、でもそれじゃ足りません。
見ているのは自分なんだから、自分で経験しないことには。
「あ、自分は色眼鏡かけてるんだ。他にこういう色眼鏡をかけてる人がいるんだ。へぇー。」と気づきはしても、その自分の色眼鏡を外したり、取り替えたりできるようになるわけではないのだと思います。
そのために、違う言語で生活したいと思いました。
一般に、文化や言語に浸るのは半年以上と聞いたので、期間も2学期分にしました。
また、生活の中だけでなく授業でもこのことを学ぶために、現地の大学では言語と認知心理学のという分野のクラスを主に取っています。
(日本でも勉強できんじゃん!という方、その通りです。当大学の認知心理学の授業で既についていけなかったので、焦ってます。普通に本読んでるぶんには楽しいんですけどねー)
ここまで読んでいただいた方はきっと、「じゃあ英語圏で良くない?」とお思いかと。
実際、6.英語の先生になるんだから、やっぱ英語力! って書いてますし。
ということで、ここからひとつ飛んで、3.『日本からみた公用語の英語』だけじゃなく「他言語の国から見た英語』を知りたい を語ります。
が、まだ7つあるうちの1なのに、この長さです。ぜんぜんサクサクじゃなかった。
続きはまた。